※昭和63年より続いておりました猪瀬学術奨励賞は平成21年度をもちまして、休止させて頂きました。受賞者の皆様方の更なるご活躍を心よりお祈り申し上げます。
アメリカでしばらく研究生活を送ったのち、はじめて欧州に渡ったのは昭和33年の春のことだった。ケンブリッジの川辺にはクロッカスが黄や紫の小さな花をもたげ、ピンクと白のマロニエの花がシャンゼリゼーに咲き誇っていた。花の都フィレンツェの藤や芍薬の見事だったこと、それにアッピア街道の路傍に咲き満ちたひなげしの可憐さなど今も忘れられない。それまでは図録でしか見ることのなかった、大聖堂や名画や彫刻を、つぶさに鑑賞することができたのも、忘れ得ぬ思い出である。 この旅行中にはじめて目にしたものはいろいろあるが、中でも地中海沿岸のところどころで、イルカと錨を配した美しい図柄のフレスコやモザイクに心を引かれた。その後、欧州には頻繁に出掛けるようになり、この図柄にもいろいろなヴァリエーションのあることを知ったが、これがFestina Lenteというギリシャ、ローマ以来の教訓に由来していることも学んだ。
力にまかせて驀進するイルカと、その暴走をつなぎとめる錨との絶妙な組合わせは、図柄として美しいだけでなく、“ゆっくり急げ”という寓意をまことに的確に表現しているといえよう。若さにまかせて早トチリばかりしている筆者にとってよい薬になると思い、爾来これを座右の銘として今日に至っている。
近年、大学院博士課程への進学者数が年々減少する傾向にあり、憂慮の声が高まっている。そこで修士課程在学中の人たちがもっと多く博士課程へ進学してくれるよう激励する意味で、5年前に思い立ち、貧者の一灯ではあるが、全国の大学から毎年三人の方を選んで頂いて、学術奨励金を差上げている。その際贈呈している銀メダルにも、自戒の意味を込めてFestina Lenteの図柄を借用した。
齢60才を過ぎた今日、自らを顧みると、仕事の山にただ夢中で立ち向い、ひたすら走り抜けてしまった感が深い。もう少し落着いて足場を踏み固めておくべきだったと思うことも多いし、あのとき道草を食っておけばどれほど楽しかったろうとほぞをかむ思いもある。座右の銘も空文に等しかったかもしれない。
詩集「Festina Lente」より 平成4年12月